3月30日

私の好きな番組のひとつに TBS の「ガチンコ」というものがある。バラエティー番組で私が観るのは、精々お笑い芸人が多数出てくる

漫才類のものくらいだったけど、この「ガチンコ」だけは何故か観てしまうのだ。これって実はヤラセなんじゃないの? と思う所も

ちょくちょく散見するが、それは御愛嬌。特に私が気に入ってるのが「ファイトクラブ」というプロボクサー養成企画だ。正直言って

私はボクシングのことなど全く分からない。しかしながら、男同士のモメゴトやケンカ等が恒例行事のように毎回勃発し、それによって

男は何に対して怒り、また生き甲斐を感じるのか、といった事がなんとなく分かった気がして楽しいのだ。中でも私は梅宮君が好きだ。

いや好きというよりは、一番気になってる人物だろう。既に五期生の企画がスタートしているが、彼は四期生だ。その四期生の中で

最も異彩を放っていたのが、この梅宮君。彼は企画に参加した最初の時から、いつも一人だった。というより、極力他人からの干渉を

避けてるように見えた。また彼自身も必要最低限のコミュニケーションしかとろうとしていなかった。そんな梅宮君は当然のごとく

番組のスタッフやテレビ視聴者等から問題児のレッテルを貼られた。しかし、その辺がバラエティー番組たる所以だ。他の企画にも

当て嵌まる事だが、この番組は「この後、更なる修羅場が!!」「予想だにせぬ結末が!!」「一体、どうなってしまうのか!?」などと

いつも大袈裟な見出しで意図的にイベントを起こしてる感じで、ナレーション次第でどうにでもストーリーを作り上げてしまえる。

少なくともドキュメンタリー番組ではない。ドキュメンタリー番組が必ずしも真実を提供しているとは言わないが、この番組によって

全国の視聴者達に植え付けられた梅宮君のキャラクター像というのは、今までの個性的な先輩クラブ生達に比べると、本人の実体とは

随分懸け離れたものになっていた気がしてならない。企画側からすれば、番組を面白くする為に梅宮君はおいしいキャラなのかも

しれないけれど、当の本人は肉体的な疲労もさることながら自分が自分である為に己の葛藤と戦い、第三者が考えている以上に辛い

体験をしたと思うのだ。自分から進んで企画に参加した以上、コーチやスタッフの方針に従うのは当然だ。梅宮君の、人から指導を

受ける者として、あまりにもふてぶてしいその態度は、一般社会ではまず通用しないだろう。しかし、周りの人々が正論をぶつけて

彼の態度を戒めようとする以上に、彼は自分の中のポリシーを貫き通したのだ。 昔、生物の授業で浸透圧というものを習った。

曖昧な記憶だが二つ以上の異なる物質が同じ所に存在した時、多くて薄い物質が少なくて濃い物質を薄めようと働く力が「浸透圧」、

というみたいなことだった。しかしこれは人間社会にも当て嵌まる気がする。人の習慣、思想、考え方、感情、信念等、あらゆる事で

大多数の勢力が少数の異質人を取り込もうと力が働いてる様にみえるのだ。まさに梅宮君は、この多勢に無勢の中、押し寄せてくる

正論軍団と常に一人で戦っていた。彼が今までに何を見て何を体験してきたかは分からないが、人から同情されるのを嫌い恥としていて

それ故に自分の方針を何よりも大事にしたんだと思う。同じ四期生が途中で方針転換をした時も、ただ一人梅宮君だけは、最後まで

自分の美学にこだわった。それが正しいか否かは分からない。ただ、この企画内において、スタッフ一同やコーチのノッポさん、他の

クラブ生などと比較すると、やはり梅宮君だけが理解されない異質の苦しみを味わっていたことだろう。ましてや、その苦しみに耐えて

きたことを評価してくれる人など居るはずもない。己で決めた美学を守ったか否かというのは、本人にしか評価出来ないのだから。

私も梅宮君をみて反省すべき点がいくつもあることに気づいた。私の大好きな言葉に「妥協」というものがある。「まぁいいや」の

精神を常に携帯している。いや私だけでなく日本の社会全体が、とりあえず一般常識さえ守っていれば安泰だろうといった空気に

支配されてはいないだろうか。確かに大多数の人々の考え方に混ざっているのは穏便で居心地がいい。しかし多数派の考えが必ずしも

正しいとは限らない。そもそも、どの考え方が正しいなどとは誰も決められないのだ。例えばヒトラーのように、カリスマ性のある

人物一人が、その他の大多数の考えを占拠してしまうことだって時にはある。大衆の心なんて本質はそんなものだろう。今や日本の

社会は自らの事なかれ平等主義によって、新たな発想を生み出す貴重な異端児達を葬り去ってしまったのかもしれない。もう時代は

「出る杭は育てる」に転換しなければ駄目なんだろう。ここで力説してみたところで、どうせ私は明日以降もぐうタラ OL やってる

ことだろうけど心の琴線に触れてくれ、鞘に収まったフリをしつつも未だ自分の美学に妥協してなさそうな梅宮君にエールを送りたい。


3月23日 日常の暇な時間にふと考えてしまうことがある。宇宙についてだ。別に私、あの車椅子に座った学者様ほど真剣に考え込む訳でなく、 そこまで熱心でもなければ知識も至らない。おバカな私は、単純に宇宙について不思議に思った事を、いろいろ想像してみるだけだ。 宇宙の果てはどうなっているのだろう? といったお約束から時間の概念、質量保存の法則は本当に該当するのか? など、考えだしたら きりがないほど宇宙は不思議に満ちている。 最近よく考えることは、もし 100光年彼方を見渡せる望遠鏡と、正確に反射する鏡が 50光年彼方の星にあって地球に向けられていたら、100年前の出来事が生中継で観れてしまうではないか! という空想だ。そんな事は 現実問題としてまず不可能だと分かっていても、ついつい大人気なく興奮してしまう。とりあえず光学望遠鏡のことはナッシングで、 今度は 100光年さきにある星へ直接行ってみれば鏡とか必要ないじゃん! とか思ってみたけど、すぐに、光以上の速さで移動しないと 意味がないことに気づき、またも却下。てゆうか光より早い乗り物が開発されたとしても、途中で隕石とか発見した時に避けられない という事実まで判明してしまった。だって自分の目で目標物体を確認した時点で既にぶつかってるじゃん  (←気づくの遅いっつーの!!)。 などということを考えてる間に貴重なお昼休みを過ごしてしまうことも多い。 とまぁ、それくらい宇宙は広いのだ (意味不明)。 しかし、そういう空想をした後に、今自分が住んでいる現代社会のことを考え直してみると、人とは小さなことで悩む生き物だなぁと 改めて思う。仮に自分が無酸素、無気圧、温度変化に耐えてしまう体だった場合、そのまま宇宙空間に放り出された時の事を皆さん 想像してみて欲しい。変化の乏しい環境で誰ともコミュニケーションがとれずに一人ぼっちだ。地球に戻ろうにも方角すら分からない。 こういう状況下で人々は何をするのだろう? 私なら気が狂って自殺するかもしれない。きっと地球に戻れるのであれば、原宿の 表参道で裸踊りをしたって構わないと思うだろう。そう考えていくと人間にとって一番辛い拷問というのは「永遠に生きる」という ことかもしれない。自殺を試みても死ねずに、自分を知る人々は歳をとって次々この世を去っていく。自分だけが大勢の人たちとの 思い出を積み重ねていくが、それを全て解かってくれる人は誰もいない。  なんとも酷い生き様ではないだろうか。 結局、人が 生きるというのは自分以外の人の心の中に生きることなのかもしれない。今、中高年者の自殺が増えてるが、自殺するまえにもう一度 考えてみて欲しい。死ねない事の方が遥かに辛いと。死のうと思えば明日にだって出来る。生きるか死ぬか選べるのは幸せなのだと。 まだ人々の心の中に生きてみていいんじゃないの? どうせ死ぬ覚悟があるなら最後にもう少しだけ好き勝手したほうが絶対お得だ!!


3月18日 最近、食肉の偽装まがいな事件が連日のように報道されている。私なんかにしてみれば、それ以前に食品の原材料表記などは 全く信じておらず、雪印食品の牛肉偽装事件が発覚した日にも「こんなの氷山の一角じゃん」と、まるで賢い消費者代表みたいに 淡々と見ていた。そして案の定、いろんな会社で次から次へと芋づる式に不祥事が沸いて出てくる。まだまだ叩けばホコリは出そうだ。 「まぁ企業は利益を追求する為の組織だしぃ〜、仕方ないんじゃないのぉ〜」と、つい思ってしまうが、消費者保護団体等を筆頭に 各方面から刺されそうなので 偽装は許しません!! と一応はクギをさしておきます。 ただ消費者の人たちも もう少し自分の裁量で物事の判断を決める癖を身に着けないと、メーカーの良きカモとなってしまう可能性があります。例えば 科学調味料や添加物が一切含まれていない加工食品は有り得ません。野菜なども無農薬栽培と表記できる基準に達しても、農薬が 含まれた可能性がある土壌でつくられてる場合がほとんどです。生産者さんが信頼できそうな場合でも、流通の段階で別な物に 入れ替わってしまえば意味はないですし、本当に無害の野菜を口にしたいなら、あとは自給自足しかないでしょう。つまり現状では ある程度有害なのは仕方が無いと割り切って、これは美味しい物と思いながら食べるのが身体にとってはベターでないかと思います。 要は情報に振り回されないことです。とりあえずメーカー側と消費者側の、両方の肩をもったところで本題ですが、やはり何といっても 見てて許し難いのが不祥事を起こした会社の釈明記者会見です。どこの会社も決まって役員が複数ゾロゾロと出てくる。社長一人で いいじゃんっ!! なんで大勢必要なの!? しかも実際に不正を指示した、工場長だか、〜〜長だか、〜〜部長だかは必ず姿を現さない。 どういった処分が実際に行われたかなどは被害者側が知る術もない。きわめつけは、全員揃っての「深くお詫び申し上げます」だ。 まるで責任の痛みを役員どうしで分散している様に感じられるこの光景。私にはこれが一番頭にくる。直接指示したのは自分では ないからと、まるで他人事だ。謝罪文も形式的に言っているのがバレバレ。せめて もう少し 責任を感じてるフリをして欲しいものだ。 子供の頃、私が教わったのは悪い事をしたら素直に「ごめんなさい」だった。お詫びを申し上げるって何さっ!! 彼等は一体どんな 教育を受けたのだろう。組織全体で責任を請け負うということは、結局誰一人責任を負わないのと同じ事だと理解してもらいたい。


3月11日 ムネオさんが人気だ。国民にではなくマスメディアにである。この方の人物評価は様々であるが、北海道の一部の人たちからは 高い評価を受けているらしい。 利害関係が大きく影響していることは、おおよそ察しがつくのだが、純粋に雰囲気だけで 評価すると、仮に自分が男で年齢が近かった場合、少なくとも私はお友達にはなりたくないと思う。 よく、顔は その人の 履歴書というけれど、ムネオさんは典型的なウソつきの顔なのだ。嘘をつきそうな人の特徴を具体的に挙げるのは難しいので ここでは省略するが、直感で私と同じような評価をされた方も多いと思う。そして日本の政治家さんたちは、人が人を評価する際、 最後はその人の顔 (表情) が無意識に評価されてることを知らなさ過ぎると思う。淀みが無く本心から綺麗な笑顔ができる政治家を 私は知らない。いつも苦虫を噛んだ様な表情で眉間にシワをよせ、利害関係がある人にだけ不自然な作り笑い。政治家だけではない。 企業のトップや権力を持った人というのは大抵そう見える。そんな形相になるまで権力を追い求めて得る代償とは何なんだろう? 彼らは例外なく金持ちだ。 けど幸せそうにはとても見えない。 私は千円もあれば容易に自分なりの幸せを感じることができる。 うしろめたい汚れたお金だからなのか違う理由があるのかは解らないが、そんなことは別にしても彼等は、自己保身、責任、体裁、 理想、見栄といった蟻地獄に嵌まり、自分にとって本当の幸せを探しだす術を失ってるように感じてしまうのだ。 そのことが更に 彼らから柔軟な思考を奪い去り、彼らに 自分の現状があたりまえの事であると認識させてしまってはないだろうか。 農水省による 狂牛病対策にしても外務省の人事問題にしても、大勢いながら出てくるアイデアはお粗末なものだ。組織とは、新しい物を考え出す 個人の能力を気づかぬうちに機能停止させ、皆に現状保持を強制させるよう洗脳する、ある種の宗教団体みたいなものかもしれない。 実は会社に勤める多くの国民も少なからずこれに当てはまっている気がする。きっと高い理想を求めた場合、よほど能力を備えた人で ない限り、何かを切り捨てなけれは成就されないものなんだろう。「何かを成し遂げないのは人生ではないっ!!」とカッコイイことも 言ってみたい気もするが、やはり私は自分にとっての幸せを優先して生きたい。 千円でハーゲンダッツが 4個買えちゃうのだ。うまトロりぃ〜ん♪


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