5月28日

よく私は 手料理に オリジナルのアレンジを加えて 別の味覚を楽しんでいる。 例えば ごく普通の「チリ産銀ジャケ(超安物)」に

マヨネーズを載せて オーブンで焼き、その上から青ノリと レモン汁を ひとふりすると 豪華レストランの トラウトサーモンの様に

生まれ変わる。 また 特売品の赤身マグロの刺身に切り込みを入れ、そこに アボガドのスライスを挟めば、なんと大トロに大変身!!

お手軽に出来る生活の知恵だが、安月給の私にとっては ちょっとした打ち出の小槌だ。 しかし 所詮は マガイモノ。 本物の味には

遠く及びません。 ホンマモンの 大トロを たらふく食べてみたいなぁと考えるにつれ、セコい努力をした私に対し 虚しさ大爆発!!

「こんな私の心境をよそに 今も本マグロは脂を身に着け 美味を確立してるのね」とアボガドの皮片を見つめ 恨めしく思うのだった。

思えば 昔から人に対しても、ある目標に向かって頑張ってる人よりは、生まれ持った能力により 同じ目標にも労せず辿り着くことが

出来る人のほうに 強い憧れを抱いてた気がする。 小さい頃、よく周囲の大人からは「努力して頑張る人間になりましょう。」などと

いうことを たくさん聞かされた世代なのだが、私は なんとなく納得したフリをしながらも、やはり本音では 己の目的を すんなりと

達成出来るような 才能に恵まれた人に 関心と好意を抱き、自分自身も そういう人間になりたいと感じていた。  中学生時代に

期末テストの前などで「 昨日 勉強した? 」「 ううん、全然してないよぉ。」といった会話を よく耳にしたものだが、あれはきっと

努力した事を隠したい気持が 皆の潜在意識の中にも あったという証拠だろう。 私が学生時代に部活動等を見てて、稀にみる才能を

感じた人というのは、共通して 本人が その種目を心底好きであり、自分に無い部分を 他者から貪欲に盗み学んでいた。また 決して

自分の実力を誇示せず、他人と己の実力とを比較することもしない。 そのうえ、たとえ顧問の先生に練習を禁止されたとしても、

目を盗んで行うほど練習が好きで 己のポテンシャルを高める事しか 頭に無いように見えた。 逆に 三流の選手ほど やたらと他人の

面倒を見ようとして、自分自身が精進することを おろそかにしながら、常に 悪い意味で 他者と自分とを比較しているのだ。そんな

同じ種目の三流競技者から見れば 才能に恵まれた人というのは、自分のことを意識もされず ただ純粋に己を磨いてる姿を一方的に

見せつけられているうちに、自分達との実力差は 益々広がってゆく 嫉妬心すら抱かせるような存在なのかもしれない。 ごく普通の

凡人から見ても、才能のある人の そういった生き方自体が、非常に スマートで格好が良いと映ることだろう。  今、イチローや

新庄といった選手が 海外で活躍している。 野球を知らない私には、本当に彼らが才能のある選手なのかといった判断は出来ない。

だが 連日のように中継されている彼らの表情を見る限り、いつも楽しそうにやっている。「好きこそ ものの上手なれ」の言葉が

見事なほど当て嵌まっている感じで、おそらく彼らにとっては天職なのだろうと 私は感じた。 畑違いの才能を目撃しても、同じ

土俵で競い合っている人々に比べれば 受ける感動は小さい気もするが、自分の好きな事を 生業としている彼らの境遇は 羨ましい。

実は私も、他人からは「努力」と思われても 己にとっては苦にならない職業を探してる。 頑張る、努力する、というのは、そこに

無理があるからで その人にとっては適任ではないのだ。「努める力」は出さないのが 私のモットー。  雇用のミスマッチなども

叫ばれているが、多くの人々が 心底好きではないことを我慢する代償として賃金を稼いでいる。 単純で嫌な仕事も 続けていれば

そのうち好きになると 自分を言い聞かせつつ、職場の仲間や家族の存在を理由に、多数の労働者が 不適任の職場で 努力して無理に

自分を順応させているのだろう。 もし私みたいな凡人が そんな現状を打破しようと試みたら、やはり「努力」するしか無いのか?


5月4日 ゴールデンウィークの前半、友達と某ハイランド近くへと 二泊三日の旅行に行ってきた。 特別 行楽以外の目的は無かったのだが、 この旅行を通じて 今まで私が何気に モヤモヤと思ってた不快感が 頭の中でハッキリと見えた。 多分私は 日本文化が嫌いなのだ! もう毎年の恒例行事となっているが、やはり今年も 高速道路で 帰省ラッシュに巻き込まれ 「 せっかくの連休なのに渋滞かいっ!! インターチェンジまだぁ?!  オシッコしたいんじゃあああっ!! 」などと、自分も渋滞の貢献者だという自覚を忘れ 奇声ラッシュ。 そう、みんながみんな 同じ時に同じ行動を取るこの習慣が なんとも やるせなく苛立たしい。 しかも ゴールデンウィークを狙って 旅行会社は値を上げたりする。 なぜ 我々は休日をヅラさないのか? 取引先も揃って操業を停止してしまい 仕事になんないから? だったら関連会社や取引先企業と相談して、みんなで 6月の半ばぐらいに休みましょ! と提案してみたくなる。カレンダーの日程を 律儀に守る義務など 企業には無いんだし。 ようするに そういった問題に対して 本気で取り組もうとする企業や個人というのが 何年たっても全く現れないのだ。 企業として一番最初に行動を起こし、ビジネス的に打撃を受けるのが嫌なのだろう。 高速道路の 渋滞にしたって「料金所を取り除け! 」「自動の課金システムを導入だ! 」などと 叫ばれ続けているわりに 未だ解決されていない。 よくニュース番組で 経済評論家などが こういった問題の打開策を話し合ってるが、彼等は持論の提案をするだけで 実際には行動を 興すわけでもない。そうゆう立場なのだから それはそれでいいだろう。しかし 知恵というのは実質を伴ない初めて価値のある代物。 私は評論家やアナリストの方々の意見を聞くたび「 月給の相場がこのくらいで時給だと‥‥うわ! この人 結構もらってるのねぇ。」 と ついつい考えてしまう。 評論家の発言とは、それが当たろうと、外れようと、役立とうと、世間から無視されようと、彼等には 関係がない。番組を充実させる為に登場しているのであって、個人的には こういった人達よりも、工場の生産ライン等で働いてる 川下の人達のほうが、よっぽど日本経済に貢献していると思う。評論家やアナリストなどが 高い月給を貰っているうちは、まだまだ 各方面でリストラの余地があり、バブル的思考が残っていると見ていいだろう。  頭で考えることはしても 行動に移さないのが 日本文化 最大の特徴だ!  思い起こせば 私の中学高校時代、体育の授業で バスケットの試合等を行った時に、一部の生徒たちは 動きが緩慢で やる気が無いように見受けた事がある。 しかし あれは本人の運動神経が鈍いのではなく、動きが緩慢に見えるのは 彼女達が 常に他の生徒達の動向を観察し、その後で自分の取るべき行動を判断して動いてた為なのだ。「目立ちたくない」「皆と 同じでないと不安だ」「出る杭にはなりたくない」といった気持が、この時 もう既に日本中の老若男女の間で根付いていたのだろう。 やるべきことは理解している。それでも あと一歩の所を踏み出さない。そこに痛みがあるのを知ってるからだ。 昔、「アメリカ人は 過激なスポーツに熱狂し、すぐ映画的なヒーローを作りたがる大雑把で好戦的で単純な民族だ! 」 と言った 日本の評論家がいた。 また 彼は 「日本人こそ 落ち着いて物事を考えられる 理知的で温厚な民族だ」とも付け加えた。 果たして本当に そうだろうか? 翻って 日本人といえば「察する文化」だとか「我慢の精神」だとか奇麗事を並べて 己の中に潜む欲望や本音を隠し続け、その結果が 行楽地等の 本来楽しむべき場所においても 外国人みたいに心底楽しんでる様に見えず、観光地の日本人にだけ見られる特徴として はしゃがず、無表情、無感動、といった気兼ねなく楽しめない態度に表れていると思うのだ。 結局 日本人の内心は、突き詰めると 「他人の事より自分が かわいい」といった未熟さが露呈する。 アメリカ人などは「 まずは自立が先 」といった精神で、そこから 初めて 他人への思いやりが持てるということを理解している。 そろそろ日本人も うわべの協調性を捨て、『個』の希薄化に対し 意識を強める時期だと思う。 いくら総理大臣が「構造改革」と叫んでみても、人々の意識が変わらない限り、絵に描いた餅だろう。


4月20日 今 私の住んでいる地域では 昼間に「探偵物語」が再放送されている。毎日これをビデオ録画しておき 就寝前に観るのが私の日課だ。 この「探偵物語」とは、知る人ぞ知る 故 松田 優作 氏の代表作品。 実は私、松田 優作のファンだったりするのだ。 しかも 支持歴は物心ついた頃からと長く、我が人生において約 8割近くの間、彼は私の心に住み着いている。今でもハッキリ記憶してるが、 当時は まだ幼稚園に通っていた私だったけど 初めて心の底から好きだと感じた人物が この優作だった。 同い年の子達と比べると 確かに私は ちょっぴり お増せな子供だったかもしれない。しかし それでも当時 彼に対して抱いた感情は、紛れもなく本物だった。 優作といえば、顔は少し痩せこけ 目が細くて小さめ、髪はボサボサパーマで ヒョロっとした体型。男の子達からは「ルパン三世」と 呼ばれていた。男前というには少し厳しい顔というのは私も認める。 しかし彼の魅力の真骨頂とは、そんな二枚目半の表情も含めた  完全にキャラクター性の部分だろう。彼の人に対する接し方には、常に本音とユーモアがある。「探偵物語」は 20年前に放送された 番組だけに、登場する人々は 揃って見事な大根役者ぶり (失礼!) なのだが、優作演じる工藤探偵だけは 今観ても充分味わいのある キャラクターに映る。これは優作自身が普段から親しみのある、本音で他人と接する人物だったからだろう。私はブラウン管で初めて 工藤のお兄ちゃんを観た時、「構って欲しい」「遊んでもらいたい」「一緒にいたい」「合いたい」といった感情が、私の中へ一斉に 押し寄せて来たのを覚えている。理屈抜きに好きだったのだ。 決して 私の周りに 面倒を見てくれる人がいなかった訳ではない。 人並みに そういった人々には恵まれていた。 だが 工藤の探偵さんほど 心躍らされる様な魅力を、身近にいる人から感じることは 残念ながら出来なかった。  例えば人類を大きく二つに別けた時、大抵の人は 男と女に別けるだろう。しかし 幼い頃の私は、断然 「大人」と「子供」という別け方をしていた。家族以外の大人が他人の子供と接する時、必ず社会的体裁を考え それを優先させつつ コミュニケーションを計ろうとする。なんでも 事を無難に収めようと一考してから 行動を起こすといった順なのだ。そんな大人の 考え方を、幼いながら私の方も直感で読み取ってしまっていた。両者の間には 明らかに壁があるのだ。 現在の社会で、優作の様に 子供の行動に対し、素の自分でダイレクトにリアクションをする大人は 一体どのくらいいるのだろう。よくテレビでレポーター等が 子供にインタビューをする場面に出合うが、いかにも仕事っぽく 本気で その子に感心があるとは とても思えない。大部分の大人は、 かつて自分も子供であったことを忘れたかのように、子供心を理解する事の必要性を軽視している。今となっては 親子ですら 本音を 言えないケースも珍しくないという。こういった場合、親自身が自らの殻を破らない事には 解決し得ない重要な問題だと思っている。 あくまで子供は受身であって、大人の接し方によって人格が形成されてしまうというのが私の持論だ。「他人の迷惑になることを してはいけません」「人には思いやりを」などと、言って聞かせることも結構だけど、背伸びした自分を 子供の前で演じていたのでは 子供の身体は大きくなっても 心は成長できないだろう。 子供には スキンシップを通して、出来るだけ多くの時間 等身大の自分で 接してあげることが、子供の心を育てる為には重要なのだと私は思う。 今の大人は 子供との関係以外にも、社会的な体裁を守る 為だけの理性を優先し過ぎているのだろう。輪を乱すまいと本音をさらけ出さない忍耐は敬服に値するかもしれないが、そういった 考え方というのが、今 日本で騒がれている様々な問題を 解決から遠ざけている最大の要因だと思う。この日本特有な、深く思慮する 大人の理性中心の世の中に 警鐘を鳴らそうなどというつもりは毛頭無い。けど 少なくとも私が結婚相手を選ぶ時は 大人の理性を捨て 職業、立場、年齢、容姿などは無視し、子供の頃 優作に感じた時と同じ様な 理屈抜きに好きになる感性を大事にして相手を選びたい。


4月10日 子供達が週休二日制になった。恥かしながら当方、あまり新聞やニュースを観ないもんで詳細は よく分かってないのだが、なんでも 「ゆとり教育」という制度の一環らしい。今の お子様は羨ましい限りだ。 どうせなら 私の小学校入学当時に導入して欲しかった。 しかし よくよく聞いてみると、この ゆとり教育というのは問題も数多く抱えてるようだ。 当然のことながら授業時間が減れば 子供達が理解する内容も減る。これは何を意味するのだろう。 今まで私達が学習してきた内容に不必要な部分でもあったのか? 私も個別に嫌いな教科などは無くなっちゃえばいいと 子供の頃は よく思っていたが、やはり親の世代から習い続けてきた事には、 それ相応の不可欠要素が含まれてただろうし、学習指導要領の内容を見て、当時の人々が何を学んだことによって 現在の世の中が 成り立っているのか、という歴史を理解する為にも、学習内容が増える事こそあれ 減ってしまっては まずいと 個人的には思うのだ。 昔の教科書を見て その内容が理解できない事は、今日まで世の中が発展してきた過程を 次世代に伝える役目を放棄したも同然だろう。 中でも私が唖然としたのは、新しい指導要領だと円周率が約 3 でよいと言うのだ! 本当に それでいいのか文部科学省っ!! 私の会社では球状の半導体なども試作しているが、円周率が 3 だったら規格に納まらず NG 製品のオンパレードで 歩留まりは ゼロ! 私の給料も ゼロ!  正に 電気・精密機械メーカー等にとっては一大事なのだ!!  また、台形の面積を求める公式も 覚えなくて よくなったそうだ。上底、下底といった言葉が無くなるのは少しさみしいが、三角形の面積を出す公式によって導き出せるというのが 台形の公式を削除した理由だと 文部科学省は言っている。だが私には腑に落ちない。他にも、定められた小数点如何では 計算に電卓の 使用を認めるなど、なにやら政府が日本人総愚民化計画でも企ててるとしか思えないほどの甘やかしぶりなのだ。 学生の学力低下が 叫ばれている昨今で、この政策の導入だ!  本当は少子化によって学習塾等の教育補助産業が ビジネスとして成り立たなくなるのを 予め防ぐ狙いでもあるのだろうか? また そういった業界団体から政府へ要請があったのではなかろうか? 実際の理由を明らかには しないまま事を運ぶ官僚の体質を見慣れているだけに、ついつい悪い方へと想像してしまう。新たな自己責任時代に備え、あえて 学習内容を減らし 自ら学んでいく姿勢を身につけさせる為なんだと、せめて信じたい。 仮に、何らかの別の目的があって政府が 「ゆとり教育」を導入したのであれば、それによって起こりえるであろう思いつく限りの弊害に対し、それぞれに 今のうちから 政策立案者や責任の所在、弊害が起きた場合の対処と責任の取り方等を決めておくべきだと思う。ことが起こってからでないと行動に 移さない体質は、第二第三の薬害エイズや狂牛病問題を引き起こしかねない。なにより、政府の都合で モルモットみたいに試されてる 子供達が あまりにも可哀想だ。 政府が ゆとり教育を取り入れた理由は、本当に公で公表されている通りで間違いはないのかと。 国益ではなく国民の為に熟慮した政策なのかと改めて問いたい。今の小学生達が 40〜50歳になって「ゆとり教育」を取り入れた結果が 当人達や日本国そのものに反映され明らかとなる頃には、今の各省庁の責任者達は 既に この世を去ってしまってるのが歯がゆい所だ。


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