2月28日

私の知人に 何人か外国人がいる。 平均すると皆、日本に来て 2〜3年といったところで 出身地は、アメリカ、インド、タイ、中国、

オランダ、オーストラリア等、様々だ。 そんな彼(彼女)らに、日本へ来てから共通して現れる変化がある。 それは 多かれ少なかれ

彼等は来日した当初よりも、少なからず怠慢になってしまうことだ。 勿論、出稼ぎの為に日本に来て 毎月 一生懸命に母国の家族に

仕送りをしてる様な 志の高い外国人も大勢いる。 しかし全般に見る限りでは、生活水準が高く 日本の社会に多く接触した外国人ほど

志の水準レベルも低下していく印象を受ける。 これは日本社会の構造に 大きく起因しているものと思われる。  語学を学ぶため、

ビジネスを成功させたい、などと 単身で来日したばかりの彼等は 理想に満ちていた。  だが 数年後に再会した時、彼らの口々から

出る言葉は「バカバカしい」「やってられない」などだ。 話を聞いてみると 彼等の不満の大部分は 正当に評価されない事のようだ。

なるほど、我々のように(私だけかもしれないが) 日本流の 非合理主義や建前なんてお約束! と思って社会生活を営む立場としては

まったく気づきもしなかったが、確かに日本の社会は 外国と比べて 理不尽な部分が多い。 人事に関係する制度は その典型だろう。

例えば今、年功序列の賃金を廃止し 完全実力評価を取組む企業が増えている。 「まぁ 日本では根付かないだろうなぁ。」と 私は

密かに思っている訳だが、まず 人が人を評価するうえで問題となるのは、評価する側の人間は 評価をされて その立場にいるのか?

また そういったシステムが機能しているのか? 等の不安が 必ずと言っていいほど付きまとう。 本来 人間には 主観と客観があり、

「好き」「嫌い」を判断する脳の海馬が 優先的に働き、いわば 主観が客観を押さえ込んだうえで 物事を判断しているのが一般的だ。

人事に正当な評価を望んだ所で 人間関係には互いの相性も絡むし、好む好まざるに関係無く 評価される側の人間は、不条理な評価を

下される立場として 常に受け止めてしかるべきであろう。 それと同時に、評価する側の人間は 自己の感情を捨てて 公平な判断を

下せるだけの「客観」の目を、必要最低限 持っていなければならない。 とはいえ人は 初めて見た他人に対してさえも、心の奥底で

知らず知らずの間に 好き嫌いといった レッテルを貼り着けてしまうものだ。 裁判官といえど それは同じだろう。  一切の感情を

排除した完璧な公平さを求めるなら、あとは コンピュータに 人事評価してもらうほかないだろう。  しかし こういった本質的な

人間の条件は、日本人も外国人も違わないはずである。 にもかかわらず 外国人が日本で理不尽さを感じるのは、やはり社会制度に

問題があるのは疑う余地がない。  まず私が日本の社会制度で 他国と大きく違いを感じるのは ルールの曖昧さだ。  決められた

約束ごとは飾りにすぎず、組織の和を崩すものであれば法律すら破る。 公のルールを破った際の罰則が あまりに軽すぎるといった

背景が そこにある。 また 世論に後押しされて ようやく政府が重い腰を上げ 法律を作っても「言われたから作ってみました」と

いった具合の、指摘された特定場面にのみ効力がある 融通が利かないものばかりで 升目の特大な ザル穴法ばかりだ。  リスクを

勘定しながら少しづつ ルールを侵食していった者が おいしい思いをし、正直者がバカを見る確率が高い、そんな国と言えるだろう。

思えば 私が子供の頃、学校でイジメがあって 仲良しの子が被害にあった。 担任の先生は優しく、クラス内でイジメを率先した者は

罰を与えると言ってくれた。 しかし そのルールは形だけに終った。 子供心に私は、思いやりのある ルーズな人間より、冷たくても

絶対に約束事は守る 厳格な人の方が信頼できると思ったものだ。 今でも私は、警察官などの立場の人には 後者の特性を求めている。

やはり「ルール」というのは守られてこそ「ルール」であって、無くても同じようなものなら、それは子供同士の口約束に過ぎない。

医療特区の問題を見ても解るように、各官僚の御偉い方が 利害関係を優先すべく 厳格なルールを作らせまいとしているのが現状だ。

臭い物には蓋をし 国民に関心の目を向けさせない その術は 見事と言うほかない。 法律を作る立場の人間が アナログ的なルールに

浸かり切っているうちは この国は変わらない。 今の日本の官僚達には アメリカのPL法並に細かく厳しい デジタルルールが必要だ。


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